ADHDとつきあいながら、薬剤師から医師へのみち
- 2016.06.25 Saturday
- 15:34
#ADHDとつきあいながら、薬剤師から医師へのみち
僕は片山さんと出会った高校時代から、科学が好きで親元を少しでも早く離れたかったので、札幌の北海道薬科大学を出て、薬剤師になりました。
ただ、薬剤師が医療のピラミッドの一部であり、地域医療を担う偉大な父を越えられないと、地域を大きく変えられないと、わかった時に、
『医師になろう!俺が医療を変えてやる。
地域を変えてやる、父親を超えてやる』
というモチベーションに火がつきました。
男ならみな思う?父親超えへ、母なる北の大地へ恩返しへ
ついに真っ向勝負なみちを選びました。
今思うとこの頃から『全力少年』が鳴り止まなかったのかもしれません。
戦前生まれで満州育ち、旭川で40年にわたって小さいコミュニテイを開業医として守りささえ続けた偉大な父を超えて、
北海道という母なる大地を自分自身の手でよりよくするというチャレンジ精神が彼を医師の道へと導きました。
瀬棚町でそこそこの成果を出しても、夕張で活躍しても、父や旭川のことを積極的に語ることはできませんでした。
旭川のこと、父のことを語るようになったのは、ごく最近です。
ささえる という真のおおやけの場を作り始めて、真の仲間を得て、自信と誇りが湧いてきたように思います。
ようやく、父に並んだ、母なる故郷北海道を少しは変えたという自負を持つようになり、周りに対しても旭川のこと、父のことを語るようになりました。
父ともようやく普通に話し合いできるようになり、旭川に対する愛着、思いも口にできるようになりました。
だから、旭川の父も含めた医療法人ささえるさんを立ち上げることができたのです。僕に会った人ならわかるとおもいますが、現在でも多動性、衝動性があります。
いわゆるADHDの症状があります。
小学校時代は学校から勝手に家に帰ったり、ひどく落ち着きがなく、勉強も習い事もまともにできませんでした。
母は『他の二人の兄弟は優等生でピアノもできたのに、ともひこはね〜〜』といまでも嘆くぐらいです。すごく手を焼く子供だった上に、当時はADHDという概念もなく、子育てをどうすればいいか、相当悩んだようです。
そんな時に、大好きだった祖父が『ともひこはあれでいいんだ。長い目で見守ってやれ。今度もいろいろあるのが当たり前だ』とドンと受け入れ、一時期は僕を預かり面倒も見て、僕の両親を安心させた?あきらめさせた(笑)そうです。
慶応義塾大学出身の祖父は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」の精神で一家を良き方向へ導いていったのです。
僕が、高齢男性を大事にし『おじいちゃん、元気?』と嬉しそうに親愛の念を持って、話すのは祖父への信頼感、思いやりがベースとなっているようです。平等精神で人を愛することを教えてくれた祖父へのおもいが高齢者への医療、ミリタリーオタク、飛行機好きなどにつながっているとおもいますし、そこに祖父が生きているなとも思うのです。
20代後半になり、周りにも恵まれ、衝動性、多動性などのADHDの症状が少し落ち着き、勉強に向き合えるようになったので医師になるために医学部に入り直しました。
金沢医大で最前列で真剣に授業を聞き、6年間、人に誇れる成績で大学を32歳で卒業しました。
これは年齢的な落ち着き、家族を持ち、長男浩明も生まれ、
リラックスしている『やすらぎと結びつき』システム(オキシトシンホルモンも関係)が学習能力や問題解決能力を向上させたことも関係しているとおもいます。
浩明ら子供にはその後も迷惑をかけるのですが、この頃の家族のおもいを浩明も大事にしてくれていて、いまも彼がささえるで少しずつですが活躍してくれていることは嬉しいです。
(ADHDを身内に持つ方へ:祖父のようにドンと構えていたら、成功することもありますよ)
ADHDをもつ人が成功しやすいワケを書いてみます。
好奇心旺盛で外交的
疲れ知らず
失敗も含めてキャラクター化できる
たくさんの事を一度にこなすのが得意
自分の症状がわかるから思いやりがある
リスクを恐れずに新しいことに挑戦する
集中しだしたら誰にも止められない
逆境に強くリーダーの素質がある
*要は、うまく育てたらどんな人でもそれなりに花開くと思うようになりました。
大学まではキャラクターとしてなんとかやってこれたものの社会人としてやっていける自信がありません。自分でも、毎日毎日職場に行くのが嫌で、周りに迷惑かける自分もいやで、自己嫌悪に陥ります。もし、なにかアドバイスいただけたら嬉しいです。