まち全体を見渡すような『公』のことをしたのが夕張時代の村上先生

  • 2018.06.27 Wednesday
  • 01:09

まち全体を見渡すような『公』のことをしたのが夕張時代の村上先生

 

みんなのもの(共有地や共有資源)を特定の誰かが使いすぎると、みんなのものとして機能しなくなる。

コモンズ:共有地や共有資源、いいかえると、『みんなのもの』
社会的なジレンマ:個人の利益と社会の利益がずれていること
コモンズの悲劇ー自分だけ使いすぎることで、システムがダメになってしまうこと。

(夕張がそうやって破綻した。)

みんなのものがうまくシェアできない時の解決策として、
1.政府管理
2.私有化 などがある。
3. みんなのものとして、統治ーお互いを監視、モラル教育。

夕張は、1、2が融合しながら、村上先生というリーダーがまち全体を見渡して、
シェア=公として機能するように働いた。

このメリットとしては
1.モニタリングコストの低減ー公設民営管理では政府などが管理する場合のハイコストを防げる。
2.環境変化に対する柔軟性ー当事者であり現場から思考できる

 

ただ、うまくシェアし続けるためには、公のリーダーと住民意識と行政レベルと教育が必要

 

だから、

今の僕らは、
『僕らのパブリック』
それは、
目の前の人たちのためにちょっと汗をかく、動き、たのしく働くこと。
働くことがカネや名誉のためだけではない

3. みんなのものとして、統治ーお互いを監視、モラル教育。
をしていくイメージだと思っている。

永森

村上先生との日々⑹(高校時代の親友、片山さんと、僕らのパブリック)

  • 2018.06.04 Monday
  • 10:55

村上先生との日々⑹nagamori
(高校時代の親友、片山さんと、僕らのパブリック)
村上は北海道どさまわりの転々とした生活のせいか、旭川という都会が合わなかったのか、父へのコンプレックスのせいか、よくわかりませんが、10代を過ごした旭川へのおもいもそれほど強くないです。
でも、その旭川で、生涯の親友、片山さんと出会いました。
旭川南高校の同級生でもある片山さんは東京での学生生活、サラリーマン生活を経て、可愛らしい奥さん、娘さんたちとの生活を大事にするために、社会労務士となり、岩見沢市に居を構えて、片山社労士事務所を開業しました。
夕張でいろんな困難があった時に片山さんと再会しました。

当時の夕張で村上先生に急に近づいてくる人はだいたいなんらかの利益、利権を求めてきた人たちでした。そういう人たちは村上がバッシングされると全く近づいてこなくなりました^^。
だから僕はやや疑いの目をもって、片山さんに接していたのを覚えています。

もちろん、それは杞憂に終わりました。


それどころか、彼は出雲大社や伊勢神宮のボランティアをつとめるような『公』の人でした。
さらに、現在の資本主義の価値観にどこか違和感を感じ、日本のために北海道のためになにかできないかを模索していました。

この片山さんが村上先生の真の親友で、社労士で、公の精神をもっていなければ、
『ささえるさん』グループの様々な仕事の改革がここまでスムーズにはいかなったでしょうし、僕自身もここまで楽しく働くことができなかったと思います。

『ささえるさん』の特徴である16万スタートの初任給の給与体系、脱年功序列、ワークシェアリングなどの労働制度は彼が作ってくれました。一時期は、旭川の村上医院の副院長も勤め、村上医院のリニュアル(40年も続けた個人商店(クリニック)を会社(医療法人)にし、普遍化し、スタッフの教育、採用など必要なことが多々あります)をしてくれました。

『ものがたりくらぶ出版』を共に立ち上げ、山田さんのジムちょ日記や、彦根の地域医療をまもる会の川村さんの『母の恋人松木先生 私の恋人村上先生』の電子本化の編集も彼がボランティアで行ってくれました。

副編集長で村上浩明を指導し、村上先生の『ささえるさんスキーム』や『白血病闘病中』などもKindle本にしてくれています。
富山の佐藤伸彦先生や札幌の一木先生らの運営の相談ものっています。


片山さんを中心として、ゆるく、バックオフィスが形成されてきている気がします。

その片山さんはこう語っています。


『村上智彦との再会は、きっと意味があるのだろうと再会した日に感じていました。
村上智彦から永森先生につながり、そして橋本先生、山田さん、ささえるのみなさんへとつながっていきました。
ささえるさんは、僕にとっては楽しい場所。
そこから拡がる人(ものがたりくらぶなど)のとつながりも、ぼくには大きなギフトなんです。』

 

片山さんのこの語りに、ポスト資本主義の答えが見えました。
片山さんは、日本の高度成長期とともにキャリアを積み、成功していきました。

なので、資本主義の基本的な考え方である、
頑張ったら物やお金で帰ってくることが豊かになることであり、幸せであるという概念を持っていました。

その片山さんが、お金をもらえなくても、ささえるさんのつながりで自分が役に立つことが楽しいし、ギフトをもらっていると言ってくれるのです。

 

日本中の人が片山さんのように、
モノカネや権利意識の資本主義主体の思考を変えていけたら、
物質欲求よりも存在欲求へもう一歩ずつでいいからシフトできたら、
みんながもっとハッピーになるとおもいます。

 

僕らが目の前の楽しいことをみんなでゆるく行うこと:
それを、『僕らのパブリック』ということにしました。

いろんなところで、
片山さんのような『僕らのパブリック』を楽しむ人が出てきたら、
点が線になり面になり、
気がついたら社会が変わっていくと思います。

nagamori

画像に含まれている可能性があるもの:2人、片山 展成さんを含む、、スマイル、立ってる(複数の人)、室内

村上先生との日々⑷ 『オヤジになってからの運命の親友、佐藤伸彦さん。愛に生きます、会いに行きます^^』

  • 2018.06.01 Friday
  • 09:49

村上先生との日々⑷
『オヤジになってからの運命の親友、佐藤伸彦さん。愛に生きます、会いに行きます^^』
若い頃には親友はできやすい。
でも、大人になってからはなかなかできないのが親友だ。

理由は簡単で、親友とかって、損とか得で考えて動いていてはできない。
だから、仕事をするようになると、大人になると、
大体の人は無意識の損得で動き、親友がなかなかできません。

村上は違いました。

二人はどこで知り合ったんだろうか、、、
数年前にずっと意識はしてきた佐藤伸彦先生と知り合いになった。

で、その直後に佐藤先生のところで色んな問題が起きた。
『あの人は日本の宝だから』と自らも顔を出して、励まし、支援した。

優秀な佐藤伸彦先生なので、村上らの支援などなくても、解決したと思います。

多分、孤立無援だった伸彦先生の心にすごく響いたんだと思う。
で、その瞬間にあっという間に二人は親友になったんだと思う。
公園の砂場で出会い遊ぶ幼稚園児の二人のように、ピュアな関係に。

村上は一切の見返りを求めていなかった。

でも、いや、だから、
何倍にも帰ってきた、のぶくんからともくんへの思い。
それを友情というし、運命とも言う。
僕は、オヤジたちの楽園はこの空間なんだと思いました。

村上先生が白血病と確定診断され、
落ち込んでいた旭川のその日の夜に、
のぶくんはともくんに会いに旭川までやってきた。

多分、多々ある仕事を全てキャンセルするって駄々をこね^^笑、、、
ものがたり診療所のスタッフたちも大変だっと思うし、迷惑したかもしれない。
でも、彼女らは僕と一緒で、
50超えたおっさんたちのキモいぐらいのピュアな友情に嬉しさを感じていたとも思う。
夕暮れの砂場の幼稚園児二人を見守る母親のように。

その後も、村上自身の『気』が折れ、『病気=病は気から』に呑み込まれた。
『ナガモリ〜ありがとう。今まで言えなかったけど感謝しているんだ』とめそめそ泣くハゲおじさん。。。^^;
このまま行くと、ダメになるな〜って、瞬間だった。
その絶妙のタイミングで会いに来てくれた親友が二人、西村元一先生、佐藤伸彦先生!!!!

そういう絶妙や偶然は必然となり、
ぎゅーんと音を立てて、『気』が変わり、村上の目に光が戻ってきて、声に張りが戻ってきた!!
持ち直したって、回りのみんなで確信していた。そして、村上は奇跡の復活した。
村上からメッセージが来た^^。

村上:今日は忙しい中ありがとうございました。
白血球が500以下で数ヶ月経過して、化学療法や移植を受けるというのはかなり無茶な治療でした。
多分この程度の副作用で済んでいるのは奇跡的です。
主治医の先生もこの数ヶ月大きな感染症にならなかったは凄い!と言っていました。
祈りや励ましにどれだけ力があるのかは分かりませんが、私には奇跡的に効果があったと思います。
まだまだ本調子では無いですが、早く戻すために頑張ります。 やる事ややれる事がある様に思えます。

ーーーー

そうやって、親友になったものの、村上は殆ど、佐藤先生に支えてもらっているだけだった。
でも、支えているのはお互い様だったのかもしれない。

村上先生の命が尽きようとした時に、全ての面会を謝絶した。

それでも、のぶくんはやってきた。
だって、親友だから。いいでしょ^^

そう、富山から、佐藤伸彦先生が駆けつけた

話すことはないんだけど、
と言いつつ、村上浩明と一緒に病室へ向かう長い廊下を歩いて行った。
その、どこか嬉しそうな背中を僕は見送った。

その時の様子を佐藤伸彦先生がメモに残している。

佐藤 伸彦write
(村上先生の話)
伸彦先生が来たのは分かった (実際にドアを開ける前にそう言っていた!)
魂が感じるんだよ 
顔を見に来た、なんて薄っぺらいものじゃなく、
魂を感じるんだ 
運命だな 
会った時から運命を感じてた 
あの温泉で話した時間は本当に宝物だった 千春!
世の中に神様は居るんだよ 
わかるだろう 
この人がそうだよ 浩明!
世の中に偉い人、地位に高い人はいくらでも居る 
でも違うんだ お父さんは人を見る目はある 
この人は違うんだ 
宇都宮宏子は大丈夫だ。この前東京で話してそう思った。 
秋山正子も。 
下河原頼む。 
仲間って本当に良いなぁー ありがとう 

佐藤が言えた事 「村上智彦はもう私のここに生きている。だから安心して。また一緒に何かしようね。今はもうしばらく休んでください。」 と抱きしめるしかなかった。
ーーーーーーーーーーーーーー

幼稚園の砂場でスコップを貸し合い、育んだピュアな二人の友情は、
終わっていない。
ママ友となった、僕らとものがたりのスタッフさんたちとの友情も深まっている。

感謝をのぶくんとみんなに伝えるために,
会いに行きます。

画像に含まれている可能性があるもの:2人、佐藤 伸彦さんを含む、食事(複数の人)、座ってる(複数の人)、テーブル、食べ物、室内

画像に含まれている可能性があるもの:2人、座ってる(複数の人)、室内

画像に含まれている可能性があるもの:1人、立ってる、室内

画像に含まれている可能性があるもの:下河原 忠道さん、佐藤 伸彦さん、、スマイル、座ってる(複数の人)、室内

 

で、翌日

ものがたり診療所に来ちゃいました(^^)

 

画像に含まれている可能性があるもの:佐藤 伸彦さん、村上千春さん、、スマイル、立ってる(複数の人)、靴、木、屋外、自然

 

僕らは、佐藤伸彦先生に、ものがたりのみんなに、
会いたくて会いに行きました。
村上先生の写真と一緒に。
昨日、連絡したのに^ ^
愛に生きますと、あ、変換ミスか^ ^
会いに行きます。でしたねー

 

村上先生の一周忌が終わり、村上先生の奥様千春さんとオマケ2人連れて、
村上先生が最も会いたかった人のもとへ

 

被り物もして、誕生日おめでとうを歌って🎊

あと、医療法人ささえるの理事長として、
感謝の気持ちを込めて、
砺波へ来ちゃいました(^_^)

 

村上先生がものがたりさん、金沢でたどった、たのしんでいた思い出をなぞる旅。

シェア金沢に寄り、
明日はゲンちゃんハウスです^ ^

画像に含まれている可能性があるもの:山田奈緒美さん、三上 薫さん、村上千春さん、、スマイル、座ってる(複数の人)、電話、セルフィー

画像に含まれている可能性があるもの:13人、、Naruko Emoriさん、増山淳代さん、畠山 文子さん、三上 薫さん、村上千春さん、永森 克志さん、、宮川 尚乃さん、浅野静子さんなど、、スマイル、立ってる(複数の人)、室内

画像に含まれている可能性があるもの:3人、永森 克志さんを含む、座ってる(複数の人)、テーブル、室内

還暦の赤いTシャツをプレゼント

どこかで見たやつ〜村上先生のものです^^

 

画像に含まれている可能性があるもの:2人、、スマイル、立ってる(複数の人)、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:3人、宮川 尚乃さんを含む、、スマイル、立ってる(複数の人)

村上先生との日々⑶ (ささえるの互譲互助は、ADHDから^^)

  • 2018.05.31 Thursday
  • 10:45

村上先生との日々⑶
(ささえるの互譲互助は、ADHDから^^)
村上さんはADHDのせいもあり、潜在的な能力は高いにも関わらず、
高校受験も、その後の大学受験もうまくいかないことが多々ありました。
色々と詳細は知っていますが^^彼の名誉のためにお茶を濁しますね〜^^

 

で、なんとか、科学が好きで親元を少しでも早く離れたかったので、

北海道薬科大学に入るも、すすきのでの課外活動に必死で留年し、
北海道薬科大学の1年生も2回やってます。
大学の大野さんら仲間たちからは「ピーマン」と呼ばれていました。
なぜこう呼ばれていたか本当の理由は定かではありませんが、

大学へ入ったとき「俺は中味空っぽだから」と言っていたらしいです。

まだまだ空回りしている自分自身への卑下だったのかな〜とおもいます。

 

ただ、留年が決まり、母親に慌てて電話をかけたようです。
駆けつけた母親を前にしっかりと勉強することを約束したようです。
そこからでしょうか。

少しずつ、変わって行く気持ちも芽生えたようです。

 

そして、薬剤師になり、医療のピラミッドの一部であり、

地域医療を担う偉大な父を越えられないと、北海道を大きく変えられないと、わかった時に、
『医師になろう!俺が医療を変えてやる。地域を変えてやる、父親を超えてやる』
戦前生まれで満州育ち、旭川で40年にわたって小さいコミュニテイを開業医として守りささえ続けた偉大な父を超えて、
北海道という母なる大地を自分自身の手でよりよくするというチャレンジ精神が彼を医師の道へと導きました。

 

20代後半になり、周りにも恵まれ、

衝動性、多動性などのADHDの症状が少し落ち着き、

勉強に向き合えるようになったので医師になるために医学部に入り直しました。

金沢医大で最前列で真剣に授業を聞き、6年間、人に誇れる成績で大学を32歳で卒業しました。
これは年齢的なものによる落ち着き、家族を持ち、長男の浩明くんも生まれ、
『やすらぎと結びつき』のリラックスシステム(オキシトシンホルモンも関係)が学習能力や問題解決能力を向上させたことも関係しているとおもいます。

 

村上だけでなく、実は僕(永森)もADHDの症状があり、

その点も村上先生とよく分かり合えました。

 

ピンチにワクワクでき、

新しいことへのチャレンジを失敗を全く恐れることなく共にし続けられた要因かなと思っています。

 

ADHDを身内に持つ方へ:ドンと構えていたら、成功することもありますよ
ADHDをもつ人が成功しやすいワケを書いてみます。

好奇心旺盛で外交的
疲れ知らず
失敗も含めてキャラクター化できる
たくさんの事を一度にこなすのが得意
自分の症状がわかるから思いやりがある
リスクを恐れずに新しいことに挑戦する
集中しだしたら誰にも止められない
逆境に強くリーダーの素質がある

*要は、しっかりと見守るように、育てたらどんな人でもそれなりに花開くと思います。

 

ささえるの仕組みは初めから村上ー永森というリーダーに多動や不注意などの欠陥があるという前提で作っていきました。
ヒューマンエラーでなく、システムを改善していくようにし、
みんながお互いに助け合い、譲り合い、支えあうことー『互譲互助』を大事にしました。
僕らは欠陥を特性として生かし、リーダーらしい部分だけは担い、みんなに誇りと自信を持たせ、この人についていけば大丈夫だという安心感を与えただけなんです^^。

 

リーダーからして、こんな感じですから、互譲互助により、バツがついているおばちゃんでも、不登校だった子でも、許容できるごちゃ混ぜの組織が自然とできたんだと思います。

ほらね、ピンチはチャンスでしょ〜〜^^

nagamori

画像に含まれている可能性があるもの:2人、永森 克志さんを含む、立ってる(複数の人)、室内

村上先生との日々⑵ <#村上先生の生い立ちとキャラ形成 >

  • 2018.05.30 Wednesday
  • 10:41

村上先生との日々⑵
#村上先生の生い立ちとキャラ形成 >
村上は生まれも育ちも北海道です。
村上の父(村上幹雄先生)は熊本県八代出身ですが、
満州で過ごした幼少期の様々な思い、戦争体験もあり、
北海道に渡り、北海道大学の医局に属して、地域医療をささえる献身的な医師となった。

いわゆる白い巨塔であった当時の医局の命令に一切の文句を言うことなく数年ごとに北海道の片田舎をドサ回りしていました。

(まさに『公』の医師です。)

当時の多くの医師たちが身を粉にして、
自身と家族を犠牲にしてでも、


地域と地域医療を支えていたことには、


僕らも地域の人も改めて尊敬し感謝しないといけないな〜とおもいます。

 

そのドサ回りの最中、1961年3月13日、
北海道の最北端、稚内のそばの歌登という小さい町の自宅のソファーで村上家の次男として、

村上智彦は生まれました。

智彦という名は、幹雄先生が当時最もお世話になっていた先生からいただいたものでした。

その智彦先生が慈恵医大出身だったようで、村上先生は慈恵医大出身である僕にすごい親近感を持っていたし、

慈恵との運命も感じると言っていたこともありました^^

 

その後も父の転勤のために、
釧路、足寄、函館と北海道中をドサ回り続けた幼少期の経験もあり、
独特の人懐っこさとどこにでもすっと馴染む特技を身につけた一方、
地域医療の過酷さと問題点を子供心にうっすらと感じたようです。

『自分は歌登生まれだからいつかは歌登に恩返しをするんだ』という彼の定番のセリフがありました。
でも、歌登には生後数ヶ月しかいなかったことを考えると、
その発言はむしろ、
幼少期に故郷といえる場所に定住できなかった地域医療へや親への恨み、怨念みたいなものがあったのかもしれません。

一方で、北海道という広い地域が自身の故郷であり、
その故郷北海道をよくするために(自身が苦労し、トラウマとなった)地域医療を改善したいという強い思いを持っていました。

村上に会った人ならわかるとおもいますが、多動性、衝動性がありました。


いわゆるADHDの症状がありました。
小学校時代は学校から勝手に家に帰ったり、

ひどく落ち着きがなく、勉強も習い事もまともにできませんでした。

 

彼の母は
『他の二人の兄弟は優等生でピアノもできたのに、ともひこはね〜〜全くピアノもダメだし、ほんと落ち着きがなかったの〜』
と今でも僕と話をするときに、
懐かし嘆くぐらいです^^。

 

すごく手を焼く子供だった上に、
当時はADHDという概念もなく、
子育てをどうすればいいか、
彼の両親は相当悩んだようです。

 

そんな時に、大好きだった村上の祖父が
『ともひこはあれでいいんだ。長い目で見守ってやれ。今度もいろいろあるのが当たり前だ』とドンと受け入れ、
一時期は彼を預かり面倒も見て、彼の両親を安心させた?あきらめさせた(笑)そうです。
慶応義塾大学出身の祖父は、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」の精神で村上を、一家を良き方向へ導いていったのです。

 

村上が、高齢男性を大事にし『おじいちゃん、元気?』と嬉しそうに親愛の念を持って話すのは祖父への信頼感、思いやりがベースとなっているようです。

平等精神で人を愛することを教えてくれた祖父へのおもいが高齢者への医療、ミリタリーオタク、飛行機好きなどにつながっているようです。

いいのか、悪いのか^^この多動性と衝動性のせいで、
いいことも大変なことも経験して行きますが、
『いつだって、ピンチはチャンスだったんだ〜〜』
と笑って、
僕に話してくれたことも懐かしい思い出です。

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